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岩倉の文化財を探そう

[2016年12月1日]

ID:330

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史跡

大地遺跡(だいちいせき)

県指定史跡

大地遺跡は、岩倉市大地町野合地内、木曽川が形成した犬山扇状地の先端にできた自然堤防上、標高7.5mに位置し、尾張平野の弥生文化を究明していく上で非常に重要な遺跡です。
昭和26年、名古屋大学考古学研究室の指導で発掘調査が行われ、昭和22年に畑から出土した壺形土器は弥生中期前半に属する精製土器で、尾張平野北部を中心に分布することが判明し、以後この土器群は大地式土器と称されるようになりました。また、調査では四隅が丸くなった長方形の竪穴住居址が発見され、床面から弥生中期前半の条痕文土器片や大地式土器と同様の波状口縁壺形土器片が出土しました。その他、この遺跡から縄文時代後期や弥生時代中期・後期の土器も出土しています。

大地遺跡 復元竪穴式住居の写真

     大地遺跡 復元竪穴式住居

岩倉城跡(いわくらじょうあと)

市指定史跡

室町幕府8代将軍足利義政のころ、幕府の権威が失墜し、応仁の乱という国内を二分する大きな争いがおきました。その結果、下剋上の風潮がみなぎり、“戦国時代“へ突入しました。
尾張においても、守護代として権力を握っていた織田氏に内紛がおこり、文明10年(1478年)織田敏定と敏広との間で激しい戦いが繰り広げられていきましたが、和議にて織田敏広が岩倉城で尾張北部を、織田敏定が清洲城で尾張南部を治めるという分割統治の時代になりました。その後、信秀の子・織田信長が天文24年(1555年)清洲城主となりました。このころの岩倉城主は、織田信安・信賢で、信長と反目しあい、永禄元年(1558年)、両者は浮野で戦い、永禄2年(1559年)信長は岩倉城を落城させ、尾張の統一を果たしました。
城の構えは、古文書によると東西約90m、南北約170mの二重堀であり、館と望楼があったといわれています。

岩倉城跡の写真

     岩倉城跡

山内一豊誕生地(やまうちかずとよたんじょうち)

市指定史跡

山内一豊は、天文14年(1545年)7月岩倉城の家老但馬守盛豊の次男として、岩倉の地に誕生しました。一豊は、信長が美濃支配をした永禄10年(1567年)ころから信長に仕え、元亀元年ころに妻の千代を迎えたとされています。信長に仕えるようになり、天正12年(1584年)に近江の長浜(滋賀県)で5千石、同18年には遠江の掛川(静岡県)で6万石の城主となりました。
秀吉死後は、徳川家康に味方し慶長5年(1600年)に土佐20万石の領主となり、高知城を築城しました。
山内一豊の誕生地碑は、一豊の父盛豊が「武運長久を祈って社を建てた」という由緒により、昭和9年に神明生田神社境内に建てられました。

山内一豊誕生地の写真

     山内一豊誕生地

井上城跡(いのうえじょうあと)

市指定史跡

応永元年(1394年)から嘉吉元年(1441年)のころ、井上村に有馬主殿正が城を構えており、井上庄17ケ村(現在の岩倉市の大部分(北島と野寄を除く)と千秋町の東部、さらには南は米野あたり)を領有していました。
井上城は、城というよりも館といった方が適当かと思われる館城で、簡単な防御と極めて質素な建造物で構成された館ではなかったかと考えられています。

井上城跡の写真

     井上城跡

新溝古墳(にいみぞこふん)

市指定史跡

本町・新溝神社本殿下の小高い部分が新溝古墳です。明治のころ、この古墳上に奉られた新溝神社の社殿改築にあたって墳丘を整地したところ、この中から数個の巨石が発見され、ここが古墳であることが分かりました。その巨石は、おそらく古墳の石室であったもので、その大きさから想像すると相当大きな古墳であったと思われます。古墳の形については、神明大一社に伝わる寛政4年(1792年)「神明太一宮鳥瞰図」の絵図には、立派な円墳が描かれています。

新溝古墳の写真

     新溝古墳

織田伊勢守信安夫妻墓(おだいせのかみのぶやすふさいはか)

市指定史跡

織田伊勢守家は、岩倉城を拠点に尾張上四郡を80年間にわたり支配していました。信安・信賢父子の時代に信長に攻め滅ぼされ、尾張上四郡・下四郡の分割統治時代に終止符が打たれました。
この墓碑は、織田信安の子孫津田新十郎によって菩提寺、名古屋市東区松山町含笑寺に建立されました。戦後の名古屋の都市計画により、平和公園に移設された後、無縁墓となっていたところを発見され、信安夫人秋悦院ゆかりの誓願寺に移設されています。

織田伊勢守信安夫妻墓の写真

     織田伊勢守信安夫妻墓

有形文化財

下本町山車

市指定有形文化財

下本町の山車は、岩倉の山車の中でも最も歴史が古く、寛永2年(1625年)に制作されたと伝えられています。木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。四本柱の乾(いぬい・北西)柱には、この山車がかつて「杉山」と呼ばれていたことから、今でも杉の枝を縛りつけています。
からくり人形は5体あり、四本柱内に「菅丞相(かんしょうじょう)」(2体)と「唐子遊(からこあそび)」(2体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。

下本町山車の写真

             下本町山車

大上市場山車

市指定有形文化財

大上市場の山車は、寛永6年(1629年)に制作されたと伝えられています。他2町の山車と同様、木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。水引きは、尾張藩の御用絵師であった山本梅逸(ばいいつ)(1783年から1857年)の手によるものです。
からくり人形は4体あり、四本柱内に「肩上倒立(けんじょうとうりつ)」(2体)と「乱杭渡り(らんぐいわたり)」(1体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。

大上市場山車の写真

             大上市場山車

中本町山車

市指定有形文化財

中本町の山車は、寛永3年(1626年)に制作されたと伝えられています。下本町の山車と同様、木製三段組み立てで、三段目の部分は上下に伸縮します。水引きは、名古屋を代表する江戸時代後期の画家、渡辺清(1778年から1861年)の手によるものです。からくり人形は4体あり、四本柱内に「那須与一(なすのよいち)」(1体)と「チリリ(回転)」(2体)、二層目に「ざいふり」(1体)があります。

中本町山車の写真

             中本町山車

円空作観音立像(えんくうさくかんのんりつぞう)

市指定有形文化財

川井町大聖寺(だいしょうじ)の観音立像は、高さが約50cmと比較的大きく、尾張地方に見られる美しい観音像の系統に属しています。炎のように上がり伸びる宝髪(ほうはつ)、やや右に傾けた首などに女性的なやさしさをたたえています。また、顔面は孔目勾鼻方式(こうもくこうびほうしき)の線刻手法(せんこくしゅほう)で円空仏の特徴がよく出ています。

円空作観音立像の写真

          円空作観音立像

柿経(こけらきょう)

市指定有形文化財

柿経は、昭和10年11月11日大山寺町小森地内の畑の地下約4mから出土した、法華経の一部八巻二十八品を書写したものです。柿の材質は桧で、長さ22センチメートル、幅1.1センチメートル、厚さ0.5ミリメートル。全体で3,591本が現存しています。

柿経の写真

     柿経

金銅釈迦誕生仏(こんどうしゃかたんじょうぶつ)

市指定有形文化財

この仏像は、石仏町内の薮から出土したものです。総高10.9cm、像高9.1cmの金銅製です。飛鳥時代に建てられた長福寺(ちょうふくじ)と関連した仏薬師寺式(ぶつやくしじしき)の像だと考えられます。

金銅釈迦誕生仏の写真

         金銅釈迦誕生仏

紺紙金字妙法蓮華経巻第六(こんしきんじみょうほうれんげきょうかん)

市指定有形文化財

この経巻は、水晶を軸とした巻物づくりで、縦24.8cm、横75.2cm紺紙に金字で法華経の巻六が書写されています。古文書によれば井上城主有馬主殿正の宿老伊藤源内が将軍義勝から授与されとあり、源内の子孫に伝わっています。赤外線写真によれば「願主常昌(ねがいのぬしつねよし)」とあり、渡会神主常昌(わたらいつねよし)が大光普照寺(現在は所在不明)に奉納したことが分かります。

紺紙金字妙法蓮華経巻第十六の写真

     紺紙金字妙法蓮華経巻第十六

鰐口(わにぐち)

市指定有形文化財

石仏町の薬師堂軒下に掛けられていたもので、大きさは直径約21cm、重さ約2kgの青銅製。銘文は、表に「奉寄進当村地頭名古屋住源朝臣大田半右衛門尉次良尾州丹羽郡井上庄石仏村長安寺薬師鰐口」、裏に「寛文二年拾二月吉祥日壬寅佛具屋平兵衛」とあり、長福寺の末寺として建てられた長安寺とゆかりのあることが分かっています。寄進者の大田半右衛門尉次良は関ヶ原合戦のあと、埼玉県行田市の忍城で徳川家康六男の忠吉に仕え、清洲城に来て、この地を領したものと思われます。

鰐口の写真

     鰐口

西出古墳出土品(にしでこふんしゅつどひん)

市指定有形文化財

西出古墳(大山寺町西出)は、岩倉市南部土地区画整理工事中に発見されたもので、昭和57年に調査が行われ、外堤が約20mの方墳であったことが分かりました。この調査で土師質(はじしつ)円筒埴輪約60個体、朝顔形(あさがおがた)埴輪4個体と須恵器高杯(すえきたかつき)などが出土しました。これら出土品の型式から古墳の築造年代も5世紀末ごろと位置付けられています。

西出古墳出土品の写真

     西出古墳出土品

丹彩台付壺形土器(たんさいだいつきつぼがたどき)

市指定有形文化財

昭和22年、五条川の川底から発見された弥生時代後期の台付壺形土器です。高さ25cm、胴径20cmで口縁端部は広くなってその部分に凹線をめぐらして、丹彩がほどこされています。胴の上半部には櫛描き文様と扇状文様を描き、胴の下半部にも丹彩がほどこされています。

丹彩台付壺形土器の写真

      丹彩台付壺形土器

鳥居建民家(とりいだてみんか)

市指定有形文化財

昭和30年の町史編さんの際に発見された民家です。外観は、かやぶきの平屋建入母家造りで、柱と梁との組み方が神社の鳥居に似ていることから鳥居建と名付けられています。この家屋の構造は、遠く室町時代における農家の型式を現在に伝えてくれる極めて重要な建築物です。

鳥居建民家の写真

      鳥居建民家

古市場遺跡出土須恵器(ふるいちばいせきしゅつどすえき)

市指定有形文化財

昭和41年の夏、道路工事中の畑地の土取りで発見されましたが、この遺跡の詳しい状況は調査されず不明となっています。ここから須恵器高杯(すえきたかつき)・短頸壺(たんけいつぼ)、有蓋壺(ゆうがいつぼ)、蓋杯(ふたつき)などが出土し、文化財に指定されました。

古市場遺跡出土須恵器の写真

      古市場遺跡出土須恵器

鈴井町獅子館

市指定有形文化財

獅子館とは獅子舞に使う獅子頭を納めた祠形のものをいいます。館本体とそれを据え付ける長持ちで構成されており、獅子頭を納めた状態で町内を移動できるように車輪がついています。
名古屋仏壇とともに発展した祭礼用具で、江戸時代後期から明治時代にかけて尾張西部地方で広くつくられました。
鈴井町獅子館は、江戸時代後期に豊年祈願の獅子舞を安置するために作られたと伝えられており、現在は町内の巡行は行っておらず、鈴井八幡社の祭礼の際に展示されています。

鈴井町獅子館の写真

      鈴井町獅子館

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