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織田伊勢守信安や山内一豊がこのまちで生まれ育ったこと、歴史とロマンを感じることができる岩倉市。とってもいいと思います。

[2018年4月16日]

ID:3070

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歴史

織田伊勢守信安について

信安公夫妻墓

下剋上の風潮がみなぎる“戦国時代”、尾張においても、守護代として権力を握っていた織田氏に内紛が
おこりました。文明10年(1478年)織田敏広と織田敏定との間で激しい戦いが繰り広げられましたが、
和議にて織田敏広が岩倉城で尾張北部を、織田敏定が清洲城で尾張南部を治めるという分割統治の
時代になりました。歴代城主については不明な点が多くありますが、岩倉城は織田敏広の時代に築城されたと
言われています。その後、岩倉城は寛広(とおひろ)、敏信、信安、信賢(のぶかた)が城主をつとめたとされています。
織田信安・信賢が岩倉城主の時代に、清洲城主の織田信長と反目しあい、永禄元年(1558年)、両者は浮野で戦い、
永禄2年(1559年)信長は岩倉城を落城させ、尾張の統一を果たしました。
岩倉市では、最も有名な城主である織田伊勢守信安については、現在信安夫妻の墓が誓願寺にあります。

山内一豊について

山内一豊誕生地碑

山内一豊は、天文14年(1545年)7月岩倉城の家老但馬守盛豊の子として、岩倉の地に誕生したと
いわれています。一豊は、織田信長が美濃支配をした永禄10年(1567年)ころから信長に仕え、元亀元年ころに
妻の千代を迎えたとされています。その後、天正12年(1584年)に近江の長浜(滋賀県)5千石、同18年には
遠江の掛川(静岡県)で6万石の城主となりました。豊臣秀吉死後は、徳川家康に味方し慶長5年(1600年)に
土佐20万石の領主となり、高知城を築城しました。
一豊の父・盛豊が「武運長久を祈って社を建てた」という由緒により、昭和9年に神明生田神社境内に、
山内一豊誕生地碑が建てられました。現在では、毎年春に山内一豊と織田伊勢守信安の遺徳を偲び、
追悼会が行われています。