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伝承と俗信

  • [更新日:2017年9月29日]
  • ID:2721

伝承と俗信

この地域に昔から伝わる伝承と俗信をまとめました。昔の人々の信仰心や生活を垣間見ることができます。

片葉のよし(葦)

大地神明社の東に小さな池があって、その池畔にたくさんの葦が年々茂っていましたが、不思議なことに、その葉が一様に片葉になっていて、その一葉々々が中市場(中本町)の方角に向かっていたといいます。中市場の神明大一社が清洲の中島宮から当地へ移された時、しばらくの間この場所が仮宮にされたので、葦の葉までがご神徳をしたって神明大一社の方を指していたといわれています。

 

雪どけの塚

北口(本町)から町屋へ通う道(旧・浅井道)で、鈴井への分岐点から少し北寄りの辺りを五山寺と呼んでいました。そこにはかって小さな塚があって、「雪どけの塚」と呼ばれていたそうですが、そこは親鸞上人が休憩された所で、その時以来、いくら雪が降ってもその場所だけは積らないと言い伝えられています。

ろくろく首

曽野村郷前に、オシャゴジというところがあり、そこに次のような哀れな伝説が残っています。昔、とある家に一人の娘がおり、年頃になって嫁にいったが三日と過ぎぬうちに戻されてきたそうです。それ以後は家にいてどこへも行かなかったそうで、その訳はこの娘がろくろく首であったといいます。この女は農家の生まれで、オシャゴジ近くの田へ出かけていたが、オシャゴジの塚の土を一鍬ずつせぶっては自家の田を広めていったといい、その祟りでこの女は世にも恐しいろくろく首になってしまったと伝えられています。

お膳が出た話

大山寺に岩塚という所があります。人寄りの時、お膳を借りる話は全国的に各地に残っていますが、それと同じ話が岩塚にも伝わっています。村人たちの寄合いでお膳の数が不足して困るような時、岩塚へ行ってお願いすると、願い通りに何人前でもちゃんと出てくるのでとても便利だったそうです。使用後は必ず返す習慣でしたが、ある時、村人の一人がその中の一枚を返さなかったところ、それ以降はお願いしても出なくなったといいます。

長遠寺渕の大蛇

五条川の川筋には蛇にまつわる伝説が残っています。長遠寺裏手の渕にも大蛇が棲みついていて、住民を恐れさせていた話が残っています。次は、かつて井上の古老から聞いた話をまとめたものです。 

明治の終わり頃、井上の一農夫が四九の市へ農具を買いに行った帰りに、長遠寺渕対岸の草ヤブを通りかかった時、行手を横ぎって太い松丸太が倒れていたので、「おや、誰がこんなとこへ悪戯しやがったんだ」と思いながら跨いだ途端にその丸太がズルズルと動いて草ムラの中へ消えてしまったそうです。「ひやあ、大蛇だったか」と農夫は真ツ青になって家まで馳け戻り、家人には何も言わず布団をかむって寝てしまいました。それから数日の間は寒気がしたり熱がでたりで半病人みたいでしたが、五日目の夜、夢の中へ一匹の大蛇が現れて、「ワシは長遠寺の渕に住む大蛇だが、お前に姿を見られてから神通力を失ってしまった。お前がワシの姿を見た場所へ浄めのお神酒をふりかけ、御幣を一本たててくれ」と言って姿を消したということです。そこで夜が明けるとさっそく田んぼへ行くふりをして、その場所へ行きお神酒をふりかけ、御幣を人目につかぬ草ムラの奥深くたてて帰ったところ、半病人だった体もシャンと立直り田仕事もできるようになったそうです。ただ、後の祟りが恐ろしくて永いこと人には話さないでいたようです。

ねこばけ物語

下市場誓願寺第九世住職は、三中上人という人でした。ある夜、寺に飼っている猫の夢を見ました。その夢の中で猫が、「今度こそお前の番だぞ、どんなことがあっても今度こそはやりそこないはしないぞ」と言ったようで、その意味が上人にはさっぱり解らないので気味悪がっていると、翌日に葬式ができたそうです。

出がけに上人は前夜夢にみた猫に軒先で出合ったので何となく不安になり「何ごとも起きねばよいが」と思いながらもそのまま出かけて行きました。 

さて、葬式が始まり、まさに引導を渡そうとした途端に一天にわかにかき曇り、ものすごい空模様になったので会葬者たちは余りのことに四散してしまいました。しかし、上人はさすがに棺の傍を離れる訳にはゆかず、しきりに念珠をくりながら称名念仏を唱えていました。そのうち、ふと見ると棺をゆすぶるものがあり、「これはてっきり魔物の仕業に違いない。死体に害を与えられたら大変だ」と上人はとっさに手にした念珠を強く打ち振ったところ確かな手応えがありました。なお、懸命に称名をとなえているうちに嵐もおさまり、四囲はもとの静けさにかえりました。

葬式を済まして帰山してみると、寺の飼猫が全身血まみれになっており、「やはり、お前だったのか」と言葉をかける上人をめがけて、その猫が飛びかかってきたので、上人は力いっぱい打ち払いました。その時を機に猫は姿を消し、二度と寺へは戻って来ませんでした。

この時の念珠は寺宝として永いこと保存されていましたが、惜しいことに永井和尚が葬式に出かけた折に紛失してしまい、織田和尚から厳しく叱られたということだそうです。

真光寺のたぬきときつね

真光寺のあんじゅうさまが、いろいろなものをお供えしてお経を唱えていたら、ご本尊が二体に見えてきました。

「これはおかしなことだ。ご本尊が二体もござらっせる筈がねえ。これゃてっきりけものの仕業に違いあるめえ」と考えて、あんじゅうさまは一つの計略を思いつきました。

そこで、「わしんとこのご本尊はよくクシャミをする。クシャミをする方がほんとのご本尊だべ」と言った途端に一方のご本尊がクシャミをしました。「いぬくそめ、このどたぬきめが」と言って、クシャミをした偽のご本尊をたたき出しました。

また、ある夜に戸口をトントンたたくものがあり、「どなただな」と聞いても返事がないので、あんじゅうさまは立って行って戸を開けると一匹のきつねがサッとばかりに逃げ去りました。

あんじゅうさまは忌々しくなり、もとの座にもどって座っていると、また、トントン音がするので「どなた」と聞いても黙っており、しばらくしてまた叩くので、そっと戸口に近寄り、だしぬけにガラリと戸を開けたら、ドスンとばかりにきつねが戸口の内側へ転がりこんできました。キツネは戸口まで来て尻尾でトントン戸を叩いていました。あんじゅうさまは手早くそれを捕えると、「もう、コンコン」といったので許して離してやったそうです。

蚊のいない寺

毎年盆の十五日夜、本町(北口)の証法寺では、大きな傘鉾が広庭の中央に建てられ、四隣から多くの参拝人を集めて賑わいを見せてきましたが、この夜、証法寺には蚊が一匹もいなかったと言われています。

親鸞聖上人が関東から京への帰りにこの寺へ立ち寄って一夜の宿を請われたところ、当時の証法寺は天台宗の貧しい寺で、客用の蚊帳もないのでその由を告げて宿泊を断ったそうですが、たっての願いもあって泊めることになりました。その夜、上人が念力で蚊を封じ込めたので、それ以来十五日の夜だけは蚊がいなくなったと言い伝えられています。

逆木のざくろ

証法寺に一本のざくろがあります。丈一メートル足らずの小さな木で樹幹は異様に節くれ曲がっていますが、かえってそれがありがたみを添えているかのようにも見えます。

三代前の住職の頃、寺の木像を三河の某在家へ事情があって一時預けたことがあって、そこの主人が幾夜も続けて親鸞聖人の夢を見たそうです。そこで上人の旧蹟巡礼を発願して、関東、越後と上人にゆかりのある土地を隈なく参詣して帰宅し、その旅で使ったざくろの杖を庭に逆さに挿しておいたら、翌春、その杖から新芽がでたので「これはただ事ではない。必定、み仏のひき合せに違いない」と思って、証法寺から預かった木像を返還するとともに、このざくろをも同寺の庭へ移し植えたという由来が今に語りつがれています。

稲原寺の石仏

市内石仏町の稲原寺に、地名の起源となった石仏がご本尊として祀られており、この御仏にまつわる伝説が語り伝えられています。石仏村をもともと稲原村と称していたことは神野の覚順寺本尊の裏書によってもあきらかです。

ことの起こったのは明応六年(一四九七)五月二十三日の出来事で、突然、村中が震動し、村境を限って村内全体が明るくなり、夜中さえも真昼のような明るさだったそうです。

村民一同がその不思議さに仰天して驚いていると、二十八日になって土地が真二つに割れ、中から三尺八寸の石仏がお出ましになり南面してお立ちになりました。また、一人の小童がそこより現れて、その口から「村人よ、一心になって敬い願うならば必ず七難を救うてとらせるぞょ。」とのお告げがあったので、村民一同が相談の結果、一堂を建立して僧宗益を迎え、村名にちなんで稲原庵と呼ぶことになったと言われています。

村の伝承では先に掘り出した石仏を祀ろうとしたら夢のお告げで「それはお前立ちだ」と知らせられ、改めて再び掘ってみたら本尊の石仏が出てこられました。それを祀って先の石仏をお前立ちとして安置することになりました。この稲原庵の石仏は子安観音とも称せられて子の無きには子を授け、子のある場合にはその子の健やかな生長を守ってもらえるとの厚い信仰を村人から受けるようになりました。

後に故あって弘法大師御作の不動明王、毘沙門天王の二尊(ともに二尺三寸)を求めて脇士とし、後年、稲原村の地名が石仏村に変わったのもこの伝承によるものと推察されます。

雷除けの御仏

東町の宝泉寺には本尊の十一面観世音(木仏座像)の外に同じく木仏の大日如来像が安置されていますが、これは伝教大師御作といわれ、岩倉城主織田伊勢守から鬼門除けの霊仏として受け入れたものと伝えられています。この大日如来は村民の間で、雷除けの霊験あらたかな御仏として深く崇敬されていたといいます。

釣針にかかった阿弥陀様の話

明治の中ごろ、中市場(中本町)に一人の老爺がおりました。子供のころからの釣好きで、毎日のように東の長瀬川(五条川)で釣りをして遊んでいたそうで、六十歳をこしてからも釣道楽は止まず、暇さえあれば川へ出かけていました。ある夏の日、大雨の降り止んだ雨間のこと、千亀橋の上手、開栄座裏の薮のあたりの深みで糸を垂れていると、チョンチョンと当たりがきたので、さっと釣り上げてみると魚ならぬ拳大の石が上がってきました。不思議に思って石をじっくりと見ると、何とその石が阿弥陀さまそっくりのお姿で、しかも釣針がもったいなくも阿弥陀さまの顎にかかっていたので老爺は腰もぬかさんばかりに驚き、早速自宅へ持ち帰ってお仏壇の中へお納めして毎日の礼拝を怠らなかったということです。

もちろん、この日を限り当人の釣道楽はぴったり止まったという話が、当時の本願寺講中仲間の間に広く語りつがれたといいます。

雨乞い

農村にとって一番に大切なことは水の問題です。当地にも地域によっていろいろな雨乞の風習がありました。雨不足のために田畑の作物が枯死寸前になった時の農民の手だてとしてはただただ神仏に祈願するよりありませんでしたが、その真剣な気持ちが種々な形式の雨乞として伝えられました。

▷八剱地区 

八剱では村の代表者が北伊勢の多度神社へ御幣を受けにゆき、村中の一軒ごとを回って寄附銭を集めて歩きました。集った銭でタイマツを買って、お宮でオカガリを焚いたそうです。また、村中の者が心経をとなえながらお百度を踏んだり、多勢で青竹にとまり、幼川へ入って水ごりをしてはお宮の社前に立ち帰ってお祈りしたといいます。

▷井上地区

井上で明治中期まで続いていた方法で、水深のあるお宮の池に村人たちが裸で浸ったのち、幼川へ入って水ごりをして、改めて神前でご祈祷をしていたそうです。

▷大地地区

大地には雨乞観音が祀られています。この観音さんは郷中の坂折神社の北東にあったミタラシ池から昔一尺ばかりの石仏が出現し、雨乞の仏として霊験あらたかとあって郷西北にあるゴシヅカ(御神塚)へお祀りしたものです。日照りで水不足になると神官にご祈祷をしてもらい、村の長老が代表者になってミノガサ姿でお願いを申し上げたもので、他の村人達もそれに続いてお詣りをしました。お詣りがすんだ後、ミノガサ姿の長老が観音さんの前で踊りをおどったと伝えられています。

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