山内一豊公と岩倉の歴史
- [更新日:2016年9月30日]
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山内一豊公と岩倉
一豊公は天文14年(1545年)7月、山内盛豊公の子として岩倉の地において誕生したと言われています。永禄2年(1559年)春、岩倉城は清洲城主織田信長に攻められ落城しました。盛豊公は岩倉方の武将として戦い、城と運命を共にすることになりますが、当時15歳になっていた一豊公は難を逃れ、岩倉を離れることとなりました。岩倉市内には、そういった歴史を語る上で欠かせない文化財があります。
岩倉城跡(石碑)
下剋上の風潮がみなぎる“戦国時代”、尾張においても、守護代として権力を握っていた織田氏に内紛がおこり、文明10年(1478年)織田敏定と織田敏広の間で激しい戦いが繰り広げられていきましたが、和議にて織田敏広が岩倉城で尾張北部を、織田敏定が清洲城で尾張南部を治めるという分割統治の時代になりました。その後、信秀の子・織田信長が天文24年(1555年)清洲城主となりました。このころの岩倉城主は、織田信安・信賢で、信長と反目しあい、永禄元年(1558年)、両者は浮野で戦い、永禄2年(1559年)信長は岩倉城を落城させ、尾張の統一を果たしました。
城の構えは、古文書によると東西約90m、南北約170mの二重堀であり、館と望楼があったといわれています。
岩倉城跡の写真
山内一豊誕生地碑(神明生田神社内・石碑)
山内一豊公は、天文14年(1545年)7月岩倉城の家老但馬守盛豊公の子として、岩倉の地に誕生しました。一豊公は、信長が美濃支配をした永禄10年(1567年)ころから信長に仕え、元亀元年ころに妻の千代を迎えたとされています。その後、天正12年(1584年)に近江の長浜(滋賀県)で5千石、同18年には遠江の掛川(静岡県)で6万石の城主となりました。
秀吉死後は、徳川家康に味方し慶長5年(1600年)に土佐20万石の領主となり、高知城を築城しました。
山内一豊誕生地碑は、一豊公の父盛豊公が「武運長久を祈って社を建てた」という由緒により、昭和9年に神明生田神社境内に建てられました。
山内一豊誕生地碑の写真
山内家系図
山内家系図
資料:岩倉市史
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